2023/12/01 11:57



この記事は、2021年に発行した『日本現代うつわ論1』の巻頭言を転載したものです。


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『日本現代うつわ論1』をお送りします。


突然ですが、この本をお手に取って下さった皆さんは、生きていくなかで漠然とした空虚さを感じた事はあるでしょうか?特に日本在住で、どこかぽっかりした感じ、あるいは中心の無さを身近に感じている方はきっと多いのではないでしょうか。本書はそのような感覚に身に覚えのある方々に届けたいと思っています。また、そうでなかったとしても、空虚の形に思いを巡らせていただくひとつのキッカケになれば嬉しいと思っています。空虚があたり前になったこの世界で、その空っぽの輪郭を確かめるために、私は本書の製作を決めました。


なぜいま「空虚」のテーマを扱うのか?言葉のイメージとしては、掴みどころがなく向かう先の見えない、不安な気持ちを連想する方が多いかもしれませんが、いま一度そこに向き合ってみると、日本の未来を生きるヒントが隠されているかもしれないと考えたからです。


「空虚」というワードを掘り下げていくために、本書のタイトルになっている「うつわ」という言葉の意味するところについて説明したいところですが、その前に、みなさまには私自身の自己紹介をする必要があると思っています。本題に入る前に、少しだけお付き合いください。



私、大槻香奈(おおつきかな)は2007年に美術作家としてデビューをし、2021年現在に至るまで、絵画作品の発表を中心に活動を展開してきました。私がこれまで作品の中で扱ってきた主なモチーフは「少女」です。私がデビューした2007年は、今やあたり前になったアイドル文化が盛り上がりを見せ始めた時代で、『涼宮ハルヒの憂鬱』など少女のアニメキャラクターが活き活きとし、またさらには、ボーカロイドの『初音ミク』が発売された年でもありました。いわゆる少女キャラクター、萌えなどの要素を押し出したコンテンツに活気があり、時代としては、何か大きな熱を持った新しい時代のはじまりを予感させていました。


いっぽう私自身は、その数年前まで実際に少女時代を生きて、それによる色んなトラウマを抱えていました。日本で現実に生きる生身の少女と、イメージの世界で活き活きとしている架空の少女のギャップに、私自身はなんとも言えない複雑でカオスな内面を抱えていました。身体性を超えて自由になった架空の少女たちは、私にとって勇気づけられる憧れの存在でもあり、しかし生身の身体(母体)を持った私自身の現実は、現代社会の中でどうしても身動きがうまくとれず、世の中に現存していた少女表現に対して知れば知るほど、またそれ一色に染まっていく世の中で動けば動くほど、身体的にも精神的にもどんどん傷付いていってしまいました。時代は明るいはずなのに、先の見えない漠然とした空虚観に襲われる日々を過ごしていましたが、そのとき、だからこそ自分は美術をやりたかったはずだと考え直しました。複雑性を抱えた私自身の少女観を、現存する日本文化を決して否定することなく、絵画として描き昇華することで、生きる力に変えようと思ったのでした。


そんなふうに「少女」モチーフを出発点に作家活動を続けていくなかで、リーマンショックや東日本大震災、この度のコロナ禍など、時代の危機もたくさんありました。時代の変化に対応して、私の扱うモチーフは「蛹」→「家」→「山」→「日本人形」と緩やかに変容していきました。必ずしも少女モチーフに拘らず、私自身の世界を広げていくためにも、立体や写真作品など自分にとって新しいことに挑戦しながら、現代日本に向けて、都度私なりのアンサーを作品によって提示してきました。


私がそれらモチーフを通して常に表現してきたテーマは、大きく言うと「現代日本における空虚性」でした。私の作家としての欲望は、日本の空虚性を作品によって形にしてみることで「いつでも空っぽを実感できるものにしたい」ということでした。個人が主体性をもたず目先だけの希望を量産し続けて、それぞれがどこか心に幼さを抱えたまま、同調圧力やその場の空気感が生きる頼りで、確固たる中心を持たないまま何故か表層的な「平和」の形だけは保たれている…それが私の知る日本の姿でした。日本に生きていて実感する、このなんとも形容しがたい感覚を絵画にすることはできても、ニュアンスを考慮したうえで言葉にするのは、私にとって長年とても難しいことでした。


私は作家活動の中でたびたび、日本における空虚さを「から」(空・殻)と呼んできました。中身が空っぽであり、しかし卵の殻でもある(そこから何かが生まれるかもしれないという希望もある)、という両方のニュアンスを含んだものとして、日本の中心の無さを表現し、空虚の存在を確かめる装置としての個展を開催してきました。既に触れた、特に少女や家に代表される私の作品におけるモチーフの変容の数々は、私にとっては「から」の概念を揺さぶるものとして存在してきました。その殻(外面)を見つめ、空っぽかもしれないしそうでないかもしれない中身(内面)について考え、描いてきました。そうやって、言葉にし難い空虚観を探り続けていました。


そんななか、2015年2月のある日、河合隼雄氏の『中空構造日本の深層』(中公文庫)を初めて手にしたことで、自分が日本に対して抱いていた違和感が確信に変わりました。同書の初版は1982年ですが、その中で既に日本の中心の無さについては存分に語られていたことがわかりました。そして2015年11月、私は「空虚」をテーマにした大規模個展『わたしを忘れないで。』(The Artcomplex Center of Tokyo)を開催しました。個展のステートメントのなかで、私はこのように書きました。


今の日本に生きる人達はおおよそみな空虚を怖れ、空虚から目をそらし、希望的なものばかりに意味を見いだし、追い求め、それでも結果的に空っぽな事に気付き、絶望しているかのようにみえる


個展ではそういった日本人思考の負のサイクルを考え直し、空虚の形を自ら掴んでみることで、もう一度自立した自分を取り戻すための儀式のようなことをインスタレーション的な展示によって行ったのでした。その時から日本における空虚性についてはより自覚的に、より前のめりに研究したいという想いが強くなりました。なぜならば、日本にとって「空虚と向き合う力」こそが、本当の意味で「平和を生きる強さ」になると考えたからです。


私は日本の平和について考えることが多いです。しかし、日本で語られる「平和」のほとんどは、対極のものとして「戦争」を持ち出すことでしか考えられていないことがずっと気になっていました。(もちろん、当然のこととして戦争についても考えなければいけませんが)強固な中心のないリーダーも大きな物語もないこの世界では、皆の都合の良いように中心によって争いが起きないように頻繁に中枢が変化していきます。でもそれは、良かれと思って私達が選択してきたひとつの「平和」の形だと思うのです。それが良いか悪いかはさておき、その結果として芯を失い「空虚」が生じているように感じられます。『わたしを忘れないで。』個展のステートメントの中では、以下のようにも書いていました。


中心の無い危うい世界では、「空虚」さはある時ハッと気付くものであってはならないのだ。そうなってしまう前に、自らの意思を持って空っぽである事を確認してみるということ。何も無い側面を持っている「わたし」や「あなた」の存在を、互いにちゃんと忘れないでいること。それは空虚を共有するということであり、平和の形を確認する事でもある。



さて、長くなってしまいました。ここまでが私の自己紹介で、個人的な思想や意志に留まる話でしたが、ここから緩やかに「うつわ」の本題に入っていきたいと思います。私はいつからか、今の日本に現存する多様な空虚の形を純粋に知りたい欲望が芽生えていました。『わたしを忘れないで。』個展以降、現代で創作活動を行う様々な分野の方たちと出会い、日本の空虚性をベースにそれぞれがどのような実感を持って生きて活動しているのか、個人的に対話を続けてきました。


そのなかで、私は非常に多様な空虚観に触れることが出来ました。それはもはや中心の無さに対する虚しさではなく、虚ろさを一周回って器のような形を成すことで、それが個人の精神の力強い核になっているように感じられました。


端的に言って、それは私にとって大きな希望でした。「空虚」が存在する為にはまず何か「うつわ」があるという前提になる、ではそのうつわとは何なのか?という問いが私の中に生まれたのです。私達は空っぽのうつわ的に物事を捉えているということ、そしてそこには、中心を持たない日本独特の感性を「否定しない」形で、また「無理のない自立」へと開かれた道が隠されていることを想像しました。そしてそれは、現代で声高に叫ばれている多様性への尊重や共存への意識にも、深く繋がっていくのではないかと直感しました。要するに、河合隼雄氏が提唱した日本の「中空構造」に対しての「実践編」を考えていくことこそが、いま現代日本に生きる私達に課せられた、重要な役割ではないか?と思ったのです。



「うつわ」(空虚)という概念に対してポジティブに向き合う姿勢は、簡単に言えば、本来の弱さを強さに、という事なのかもしれません。

それにしても、冷静に考えれば現代の日本文化はうつわ的なもので溢れています。本文で既に取り上げましたが、初音ミクに代表されるボーカロイド達や、バーチャルYouTuberのキズナアイ、そのあとに続いた数々のVTuber、量産されるアニメキャラクター、大人数のアイドルグループ…。日本のポップカルチャーと聞いて思いつくようなコンテンツのおおよそはうつわ的なものを孕んでいるようにみえます。そのひとつひとつをフォーカスすれば個性があり、唯一性をもって存在していることがみえても、何も知らずに遠くから眺めたときの印象として、個人的にはどこか中心性のない虚空の要素があると感じています。私にとって、うつわ的なものは総じて日本的であります。(念のため、虚空という言葉のイメージによってネガティブな意味に捉えられてしまうことを危惧しますが、そういった意図で使用しているわけではないことを申し添えておきます。)



では、単に虚空の要素だけがうつわ的なのかというと、決してそうではないと思っています。というよりむしろ、ここからが「うつわ」の本題になりますが、残念ながらこれ以上は、現状言葉で説明するのは困難だと思っています。なので今回は言語化するよりも、そのあたりのことを本書の内容を通して体感していただくほうが、すんなりとうまく伝わるのではないかと思っています。本書では、色んな分野で活動する方々のうつわ的側面を取り上げることにしました。



本書にご参加頂いたのは、小説・詩・論考・陶芸・写真・人形・絵画・イラストレーション・グラフィック…など、本当に様々な領域で、洗練された「うつわ」の輪郭を教えてくれる方々でした。大前提として、私自身の勝手な見方によるうつわ的ラインナップではありますが、読者の皆様には、本書の全体を通して浮かび上がる多様なうつわ性と、それによって高められた感受性や美意識、それによる希望とを、きっと感じて頂けるのではないかと思っています。言葉にするとなんとも堅苦しさが拭えませんが、本書にまとめられたうつわ観は、もっと有機的で柔らかく、豊かに開かれていると思っています。「うつわ」と一言にいっても、皆が同じような形をイメージするわけではなく、それぞれが別の方向性で形を掴み、自立できるという点が、うつわを考える上で重要なポイントだと思っています。この本をお手に取って下さった皆様にも、きっと独自のうつわ観がみえてくることを期待しています。


ずいぶんと長い巻頭言になってしまいましたが、うつわについて何となくわかった方も、何が何だかよくわからない方も、まずはどうかゆっくりと、最後までページをめくってみてください。得体のしれない「うつわ」の輪郭を確かめる行為が、この何もない世界に未来を感じるきっかけとなりますように。


二〇二一年八月某日 大槻香奈